誰かのために

どんな時代にも微笑ましい光景

はじめに

この日本で男女の平均寿命は、軽く80歳代を超えてしまいました。

最後を迎えるラストランのステージで、何を強く思うかは人それぞれでしょう。

人はもれることなく幸せになるために生まれてきています。おこがましいことでも何でもありません。問題は、何が人として幸せなのか、本人が幸せと感じることとは?これまでも色々な記事で触れてきましたが、私はこう思います。

家族や他人・動物・植物等の幸せ(喜び・楽しい・嬉しい・素晴らしい)のために自己犠牲を厭わないことだと。

私は、20代後半から時の流れが速く感じるようになり、1年間そのものがあっという間に過ぎ去るようになりました。この調子だと子供達は、あっという間に成人し家庭を作り、孫がハイハイを始めてしまうかもしれません。

その時、遠くを見つめて自分を振り返ってみる・・・。


物思いにふける老人。一体どれだけの時間を遡っているのでしょう
色々なことを思い出すでしょうけど、きっとやってよかったと思う記憶の数々が大きく成長していることと思います。しかし、その一方で

(あの時、何であの人を助けてあげられなかったのか?)

(自分のためだけに使った時間とお金を、今子供たちにそのまま譲渡できれば)

(どうして、なぜ、・・・・)

後悔も多々あるに違いありません。時間が巻き戻せないからこその後悔です。

でも人生をあっという間に駆け抜けたのだから、後悔の数々は当たり前のこと。

その後悔を減らし、「幸せだった・・・」と言えるラストランとしたい。自分の寿命は、本人さえも知りえない大きな謎です。でもその日は100%確実にやってきます。それを覆せる人間もいません。

今回はそこのところを見つめていきたいです。


信号待ちというより、遠い記憶の誰かを待っている
人のために時間を費やせるか?


恥ずかしさで目を隠してしまうおばあちゃん。でも笑顔と分かる
心理学者の植木 理恵先生の著書の中でこんな実験を紹介していました。

ペンシルバニア大学ウォートンスクールの研究者たちが、忙しさを感じている人たちを被験者として突然の自由時間を与えました。

①グループ:「自由に過ごしてください」と伝える。
②グループ:「必ず誰か他人の手助けにその自由時間を使ってください」と伝える。

実験後、それぞれのグループにアンケートを行ったところ②のグループの方が

自分が感じている忙しさ、つまり「時間がないという意識」が薄れていることが分かりました。

これらのことから分かることは、

誰かのために行動することは、時間に関わるプレッシャーを和らげ、ストレスを軽減できるということです。

これは大きなヒントです。

人は、仕事に忙殺されて、それを達成したとしても、得るものは喜びよりストレスの方が大きい。

人は、誰かのために時間を費やす方が幸福度が高い。例え仕事ノルマが間に合わなかったにせよ。

あっという間に過ぎ去る1日を(本当に幸せな1日だった・・・)と思えることがどれだけ程遠いのか。それとも近いのか。

実は”自分次第”です。

人のために喜びや楽しみを享受できる人生が、その人の人相にも表れてきます。

同じ時間を生きているのなら、笑顔が素敵な老人になりたいものです。

おわりに


人相は、その人の人生そのものかもしれません
私の20代から30代半ばまでは、仕事仕事の120%仕事優先でした。人相と言えば、自分の子供が「怖い」とこぼしてしまうほど眉間に深い縦皺が入ってしまい、一体何のために仕事を頑張っていたのか・・・。

子供達や仕事先の相手の幸せのために、仕事120%をやっていたつもりが、まったく何の幸せも運ぶことができておらず、自分が仕事に忙殺されていないと落ち着かない”労働中毒”になっていたなんて・・・。

でも幸い気づくことが出来ました。これじゃ、駄目なんだと。

子供や妻が警鐘をならしてくれました。

あのまま自分の仕事中毒のために生き続けていたら、大病や寿命で死を目前にしたとき、きっとこう思っていたでしょう。

 なんて無様で哀れな人生を送ってしまったんだろう・・・
取り返しのつかないことをしてしまった・・・

今は、とにかく人のために、自分をどれだけ犠牲してでも貢献し、その対価を得て、みんなが幸せになればと思っています。死を目前にして、どれだけの人を幸せにできただろうと笑みを浮かべながら、奄美の海を見つめていられればと思います。

あなたが、もし心にチクチクと何か感じるものがあれば、私は少し役目を果たせたことになります。

最後までご購読ありがとうございました。